東京天ぷら料理会 東天会

昭和27年に私共の先代や先々代が作った東京の天ぷら屋が集まる会を「東天会」トウテンカイといいます。

店主敬白

  • 新着情報
  • 会員店舗
  • 会員ページ
  • 店主敬白
  • 天ぷらの話
  • HOMEへ

日本橋の「天ぷら弁慶」は昭和22年創業の天ぷら専門店。戦後の創業時の話や、東天会発足から現在に至るまでの様々な出来事を、現段階で最長老の今城氏から聞き出し、文章にしてお伝え致します。
編集 ハゲ天(渡辺氏)

日本橋・天ぷら弁慶

日本橋・天ぷら弁慶 社長 弁慶さんのご創業は昭和22年、現在まで約60年の歴史をほこる。創業者であり現在もご主人であられる今城英男さんが、旅館を経営されていたお父上に資金の援助を仰いでのご創業とのことだが、何せ戦後の何も無い時代、大工さんに材料込みで来て貰いバラックを建ててもらったそうである。さらに、料理屋でも酒や米の提供が自由に出来なかった時代のことなので、密売をしたとのことで、警察にしょっ引かれたご経験もあったとか。

警察が来るとお客様を裏口から逃がして裏口営業と呼ばれた大きな料亭などの店舗と異なり、小規模な天ぷら屋は正直な商売を強いられていたようだ。当時の主な材料は浦安あたりからポンポン蒸気で娘さんが運んでくる江戸前の小魚など、お酒も麹臭い新酒を避け、千住のあたりまで古酒を買い求めに行っていたそうである。

専門店としては関西料理の流れを汲むとおっしゃられる弁慶さんだが、天ぷらに取り組む真摯な姿勢がお客様に評価され、今日に至る隆盛につながっている。昭和27年に稲ぎくさん、てん茂さん、天音さんの声掛けで誕生したとの東天会にも初期のころより参加され、他の料理に負けないよう力を合わせていこうといった気持ちがあったことが会の発足の経緯と当時を振り返る。

中でも2代目の会長をつとめられた柳橋大黒屋さんの時代に海老塚を建立したり、天一さんが提唱されたといわれる「夏こそ天ぷらを」をキャッチフレーズに天ぷらのPRにつとめたりと、東天会も会員店舗とともに成長を続けていったそうである。しかしながら、当時苦労をして入手していた材料を安定した供給が受けられるようにとしてはじめた協同組合や、天ぷらをPRするために作った機関誌はうまく行かず2年ほどで立ち消えになったとか。

日本橋・天ぷら弁慶 社長弁慶の今城英男さんは当時ジュニアの会(ころも会)を立ち上げられ、現在の東天会の中心的な存在。油屋さんなどの業者さんなどの世話にもなったとはいわれるが、親睦旅行なども数多く実施され、同業者が単なる競争相手ではなく、よき友でありライバルであるような関係をつくりあげていった東天会へは単なる愛着以上のものをお持ちのようだ。

車えびの養殖の成功などが、今日の天ぷら屋には欠かさざるを得ない要素ではと、時代とともに良くなったこともある。しかしながら天ぷらの種は時代とともに増えてきているものの、味は60年間変わりないとおっしゃられる目先に流されない伝統的な店作りは、英男さんの孫でもあられる智史さんに受け継がれ、将来に向けて更なる発展を期待されている。